ハチコウ大学講座

ハチコウ大学講座「新一万円札の顔 渋沢栄一と深川」を開催しました

ハチコウ大学講座「新一万円札の顔 渋沢栄一と深川」を開催しました

「新一万円札の顔」になった渋沢栄一が兜町に移るまでは、現在の江東区の深川を拠点としておりました。また、渋沢栄一は長く、旧深川区の区議会議員を務め、初代区議会議長や深川教育会会長も務めています。さらに、自宅内に現在の澁澤倉庫を設けるなど、深川の発展に尽力しました。そんな深川を清澄白河方面から門前仲町方面へ2時間ほど歩きました。


駅からしばらく歩くと、三野村ビルに到着しました。
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幕末から明治にかけて、豪商・三井家の窮地を救い、後に「三井の大番頭」と称された三野村利左衛門が設立した合名会社(現在は株式会社)の社屋として、昭和初期に建築され、現在も使用されていています。
入口に施されたテラコッタなどの装飾が優美で、ドラマや映画でもたびたび使用されているそうです。

続いて、清澄公園に到着しました。
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明治時代に岩崎家が造園した清澄庭園の西部分を整備して、戦後作られた公園です。完成当時には西洋館があったそうですが、関東大震災によって焼失したとのことです。

清澄公園から隅田川方面へしばらく歩くと、本邦セメント工業発祥の地がありました。
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日本で初めてのセメント工場があった場所で明治8年(1875年)当時の工部省が、墨田川や仙台堀川などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産の本格的なセメントの製造に成功。
明治16年(1883年)、創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受けて浅野セメントを設立し、民間のセメント工場として発展をとげたそうです。
浅野セメントは現在の太平洋セメントにつながっているとのことでした。

さきほどのセメント工場そばには、平賀源内電気実験の地という石碑がありました。
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さらにその近くには赤穂浪士休息の地と書かれた石碑がありました。
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しばらく歩くと食料ビルディング跡地に残るアーチ状の建造物が見えてきました。
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食糧ビルディングは、昭和2年(1927年)に建築された鉄筋コンクリート3階建のビルで、栄一の従兄弟渋沢喜作は、大蔵省退官後、栄一のアドバイスで米穀と生糸を取り扱う渋沢商店を開きます。明治19年(1886年)、深川の廻米問屋によって東京廻米問屋市場が開設され、喜作は初代総行事を務めました。食糧ビルディングは、平成14年(2002年)に惜しまれつつ解体され、跡地のマンションにはモニュメントが設置されています。

しばらく歩くと、紀文稲荷神社に到着しました。
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元々は、元禄年間(1688~1704年)、ここにはかつて豪商紀伊国屋文左衛門の船蔵があり、航海の安全と商売の繁盛を祈って、京都の伏見稲荷神社より御分霊を勧請し、この地にお稲荷様を祀ったそうです。昭和初期、この付近で疫病が流行し、行者にその平癒をお願いしたところ、どこかに放置されたお稲荷様があるはずで、そのお稲荷様を祀れば平癒するというご神示をいただき、当時草原と化していたこの付近を捜索した結果、荒れ果てた祠を発見。肥料商人中田孝治が発起人となって、現在の社殿を建立、お祀りしたところ、疫病は平癒し、商売も大繁盛したそうです。それ以来、商売繁盛、家内安全のお稲荷様として広く信仰を集めているとのこと。


しばらく歩くと、佐久間象山砲術塾跡と書かれた看板がありました。
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嘉永3年(1850年)の7月~12月までというきわめて短い期間に、この地にあった信州松代藩真田家の下屋敷で、佐久間象山が西洋砲術塾を開いていたそうで、このころ、勝海舟が入門したとのこと。


続いて、澁澤倉庫発祥の地を訪れました。
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渋沢栄一は、明治9年(1876年)に深川福住町(永代2)の近江屋喜左衛門の寮を購入し、修繕して本邸とし、明治21年(1888年)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されたそうです。大島川に面した川岸の道から門を入ると、両側に三三の倉(3間に3間の意)が立ち並んでおり、その奥に玄関があったそうで、この倉は、後に澁澤倉庫部になり、澁澤倉庫会社に引き継がれたとのこと。早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897年)、当地に渋沢倉庫部を創業。近代的な営業倉庫を求める産業界の要望、銀行業務にともな担保品を保管する施設の必要性などを背景に、明治30年(1897年)3月30日、渋沢栄一邸内に、渋沢栄一が澁澤の前身となる澁澤倉庫部を発足させたそうです。同42年(1909年)、組織を改め、現在の澁澤倉庫株式会社としました。大正4年(1915年)以降、近代的な倉庫会社の設置を求める地方銀行の懇請に応じて、小樽、門司などに進出して業容を拡大したが、大正12年(1923年)の関東大震災によって、東京の倉庫群が甚大な被害を受けたことから、本店を深川から南茅場町に移転して、再建に踏み出したとのこと。

その後、太平洋戦争によって、創業以来蓄積してきた資産の過半を失ったが、高度成長期を通じて営業能力を回復し、陸上運送業、港湾運送業、航空・国際運送業と、順次業務を拡充・拡大し、総合物流業として営業基盤の強化に努めたそうです。

平成21年(2009年)、86年ぶりに江東区永代(旧、深川福住町)に本拠を戻し、平成29年(2017年)に創業120年を迎えたとのことです。



続いて、澁澤倉庫に隣接した福住稲荷を訪れました。
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近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠だったが、明治9年(1876)、渋沢栄一が近江屋の屋敷を買収して、さらに、澁澤倉庫部(後の澁澤倉庫株式会社)を創業した後は、同社の守護神として祀られたそうです。


最後に深川東京モダン館を訪れました。
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関東大震災後の昭和7年(1932)4月、生活困窮者に対して、安く食事を提供する東京市営の食堂として、建築された建物で、具体的には、大正7年(1918年)に起きた米騒動をきっかけとして、2年後の大正9年(1920年)に神楽坂と上野に市営食堂が開業したそうです。深川区(当時)には、関東大震災後の大正13年(1924)に黒江町49・50番地に仮設の深川公衆食堂が設置されたとのこと。この食堂は、大正15年(1926)に廃止になったが、昭和3年(1928)に常設の食堂建設が計画され、東京市深川食堂として営業を開始したそうです。

その後、昭和12年(1937)に廃止になったが、その後も、安く食事を提供する場として存続し、第二次大戦後は、東京都立内職補導所として使用され、昭和54年(1979年)に江東区に移管された後は、平成18年(2006)まで、江東区の福祉作業所などに活用されていたそうです。

関東大震災復興事業の様子や、当時の構造技術、建築デザインを伝える数少ない現存施設として歴史的価値を持っていることもあり、平成20年(2008)に国登録有形文化財として指定されたとのこと。 深川東京モダン館としては、江東区の観光と文化の拠点として、平成21年(2009)10月10日に開館。同館では、地域資源や江東区の情報を紹介し、江東区の近現代史や食文化に関連した展示や事業も行っているそうです。

講座の後半には雨に降られる時間もありましたが、夏に比べれば過ごしやすく、街歩きにはいい季節になってきた気がします。
今後も皆様の学びの好奇心を満たす一助となれるような講座を企画していければと思います!

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